ウィリアム・カペル・エディション Vol.2 レビュー





ウィリアム・カペル・エディション Vol. 2

収録曲:ショパン / ピアノ・ソナタ No.3、ワルツ Op.18、ピアノ・ソナタ No.2、ノクターン Op.9-1、メンデルスゾーン / 無言歌集より Op.67-5、シューマン / ロマンス Op.28-2、モーツァルト / ピアノ・ソナタ K.570 より第2楽章 


■カペルのショパン。■

    多くのピアニストにとってそうであるように、カペルにとってもまた、ショパンは重要な作曲家の一人であった。このエディション第2巻には4曲のショパンが収められている。それらはそれぞれに興味深く、またカペルの偉業を語る上で欠くことのできない作品群である。
    1945年のライブによるノクターンOp.9-1は彼のショパンの中では比較的早い時期の録音といえる。幸運なことに我々はカペルが使用したこの作品の楽譜の写しを見ることが出来る(冒頭のみ)。その楽譜の上部にはカペルが16歳の時から師事したオルガ・サマロフの筆跡で「フレーズの終わりの音が重くならないように」という注意書きがなされている。そのアドバイスを受けてか、カペルはフレーズの終止音をとても丁寧に扱っている。しかしながら、この録音では、まだまだカペル自身のショパンは確立されるに到っていない。ここで聴かれるような能動的ルバートやダイナミクスの変化、つまり主観性が客観性に勝るアプローチは後年の彼のショパンにはみられないものである。これは23歳のカペルがエネルギー溢れる初々しいピアニストであったことの証拠であり、それは彼がまだ真の頭角を現す前夜の出来事であった。
    一方、1952年に録音されたワルツOp.18は、我々が聴くことの出来るカペルによるワルツの唯一のものであり、全9巻からなるエディション全般においても一際輝きを放つ演奏である。先に述べたノクターンとは対照的に、こちらは明らかに円熟したカペルのショパン演奏の好例といえよう。彼の演奏美学の中核を成す端正なたたずまいを保ちながら、マズルカ同様に音楽との戯れを愉しんでいる。洒落たアーティキュレーションと明るい音色で聴かせるこの演奏は、カペルらしさ満載の名演である。
    カペルの名演中の名演とは、すなわちショパンの3番ソナタを置いて他に無いであろう。ここに収められたこの作品の収録には、まるまる1年もの年月が費やされている。実はこのレコーディングに先立って、更に2年ほど遡った時期の断片的な録音が残っている(Vol.9収録)。おそらくこれは試験的な録音であり、カペルはプレイバックを聴きながらいささか時期尚早の感を拭えなかったのかもしれない。3番のソナタはそれから2年間寝かせられ、1951年改めてスタジオに持ち込まれることになる。
    20世紀前半に全盛期を迎えていたピアニストのショパンに対するアプローチは、往々にして非常にセンチメンタルな傾向が強かった。その中にあって、彼のくだんのソナタに対するアプローチは斬新なものとして受け止められていたようである。カペルに言わせれば、ショパンはまずもって「ピュアリスト」であり、その音楽も「ピュアである」。更に、演奏家はそれを生み出した時の作曲家の気分も考慮しながら作品そのものを客観的に研究しなければならないという。そして、カペルによってそうなされた結果が、あの演奏なのである。
    全体の骨組みは理路整然と構築され、一切の無駄が省かれている。しかしそこから受ける感触は極めて自然で、円熟を極めた深みと暖かい愛情に満ちている。ショパンの晩年近くに書かれたこの傑作の真意は、やはり無情にも晩年に近づきつつあったカペルによって見事に音の中に表現されたといって良いであろう。そしてその音楽は、楽音がただ楽音そのものとしての意味しか持たないショパン音楽の純粋さへと昇華しつつある。しかし、いみじくもエヴァンス氏がライナーで述べているように、そこまでの完成度を持ちながらも、カペルの演奏は更その先に広がる世界を予感させ、その新しい境地へと彼が踏み出さんとしていることを感じさせる。そうした彼の背後にある音楽の無限の広がりこそがこの演奏の真の価値であり、この名演が特に傑出した名演であることの所以である。
    現実的にカペルの音楽に終止符を打つことになったのは、ここに収められているショパンの2番のソナタ、「葬送」である。彼は晩年、夏のシーズンをプラードのカザルス音楽祭で過ごした後、長期間にわたるオーストリアでの演奏旅行を行った。それが終了し帰国する途中、サンフランシスコの山岳地帯で飛行機が墜落、非望の死をとげることになる。この録音はまさにその悲劇の一週間前の演奏である。
    録音の状態は決して良いとはいえないが、聴衆を前にしてのカペルの熱演振りは充分伝わってくる。力強く切れの良い和音、突き進むような情熱、そして高貴なカンタービレ。旋律を受け持つ音色はあたかも弦楽器による演奏のように豊満で暖かい。しかし、これは少なくとも演奏者自身にとってとりわけ重要な意味を持つ演奏だったというわけでもなく、リパッティの病死直前のライブのように恍惚とした光りを放っているというわけでもない。 この演奏を特別なものと位置づけているのは直後に彼が他界してしまったという事実であって、演奏そのものは30歳を過ぎて油が乗り始めたころのカペルそのものである。そしてそれが聴き手に一層彼の突然の死を悼ませる。ぷつりと途絶えた糸の向かう先はどこであったのか。
    カップリングされたメンデルスゾーンとシューマンの小品は深く陰りのある音色が魅力的な演奏である。シューマンの同曲は3年ほど前の録音がVol.5に収録されているが、ショパンの作品におけるのと同様、年月を経るにつけカペルの解釈は外見はシンプルに、しかし内面には驚くほどの豊かさを秘めるようになった。
    モーツァルトのソナタにしても然りである。この変ロ長調のソナタ第2楽章の録音は2つのヴァージョンが現存しているが、ここで収められているのは晩年の演奏である。3年半ほど前に録音された演奏(Vol.6収録)と比較すると、演奏の成熟度は雲泥の差である。音楽のたたずまいは楽曲全体に大きな弧を描くような雄大な流れとなっており、もはや彼をあせらせたりあわてさせたりするものは皆無である。このソナタの録音が完成の陽の目を見ることが無かったのは返す返すも無く残念なことと言わねばなるまい。


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